お母さんの君子蘭元気かなー
4/23のツイッターの記事を抜粋★
漆黒の夜の窓からすっかり
初夏の風と香りと
虫の鳴き声…
あなたが居なくなって
9ヶ月経ったよ、お母さん。
君子蘭が鮮やかに咲いとるよ。
見るととてもパワフルな
オレンジ色ですごく元気が出るよ。
ありがとう。
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…ホント、足を骨折してさ。
ふつうに何不自由なくどこも悪くなく
五体満足に産んでくれた事にも
何気に感謝した今日でしたわ。
生きてるうちにそう言えたら良かったね。
あーあ やっちゃったよー(´;Д;`)
寮の温泉で朝風呂のあと休憩室の入り口の段差につまづき左足小指の付け根をポッキリ骨折☆お婆ちゃんかよ‼︎ピーポー鳴らさないでと119したら田舎なので消防と救急のダブルで来ちゃうしどこから聞きつけたのかマネージャーや総務も来ておおごとやん…滑ったけど滑らない話に無事ランクイン…
救急車で病院まで50分?超田舎やん…
通院大変やん…。しかも足の装具に3まん3ぜんえんてアンタ…。しかも仕事に派遣されてまだ10日、保険証到着してないやん…今日手出しやん…2まん3ぜんえん…クレカの出番かい…あー
切れたヨカタ…来週2連休で予定の札幌泊まりの藻岩山登山よグッバイ…涙。
3月に家族間の喧嘩にて肋にヒビが入り。発達障害パワハラの兄姉から逃れGWに家出。3週間九州でホテル暮らしの後、北へ飛び寮暮らしを始めて安定して来てたのにコレかい…。家族の呪いか業の問題かモヤっとするけど…終わったことはなかったモンと考えるルールを採用して考えない‼︎ 少しばかり人生ハードモードなだけ。と痛みの中、無理くり寝たのが一昨日。
ネットで調べたら、足先の怪我は家族の念が集まってまとわりついてるんだと。
スピリチュアルも全面的には信じらんばって
…
思う所あり。家出をした経緯と気持ち、もう無理なこと。綴って手紙にしたため父に送ることにした。
家族に振り回されず私は私のベストを尽くして
自分の力で幸せ感を得るんだ‼︎ と決意。
なので足の骨折も束の間、死んだお母さんがアンタ少しペース上げすぎやけん休みなさいヨと
言ってると思って、この機会に大人しく自分と向き合ってみようかねーと思ってる次第です。
無理して家族に合わせなくていい
6歳年上の姉はパートをしていて生活保護需給している義兄の生活を支えている。需給も
もう14年ほど。義兄は良い人だが、365日全く働けないようには見えない。気管支が悪く死にかけたそうなのにタバコを吸いたまにパチンコへ行っている。
「生活保護っていくら貰えるか知っとる?」
「俺もコールセンターの仕事しようかな」
「貰える人なら貰っといたらいい」など
納税者で一人暮らしの私からしたらたまに「は?」という発言をする。
あーこの夫婦はもうぬるま湯から出る気は無いんだなと。
姉のパート先が昨年末倒産して姉は無職になったが働きたくない、燃え尽きたといって求職を数ヶ月間していなかった。その間、実家の兄(私の7歳上)が暴れ、姉は父との仲裁に立ち回ってはいたが、それは私の目からは求職してない後ろめたさから来る親切のようにも思えた。優先順位はあくまで自分の事で市民の税金をなるべく使わないようにするのが先決だと私は考えていた。
なので、義兄の妹が(こちらも生活保護)子供の世話をせずにスマホ課金ばかりしている、という姉の世間話を疎ましく思った。
「そんなに国から貰ってていいね」
「悪いけど私の前では生活保護の話はせんで」
姉は激昂しだした。この手の話はイコール馬鹿にされたとプライドを刺激される様で、いつも態度が急変する。
私的にもお願いベースで姉と少しばかり距離を置くつもりで言い方を考えたがダメだった。父と兄も姉の肩を持ち、実家には迷惑をかけられてないし、色々やってくれてるから
そんな事は目をつぶらないかんし触れるな、と取り合ってくれなかった。
殴られはしなかったものの、私は土下座を結果的にする形になり罵倒は1時間以上にもなった。ほぼパワハラだった。姉は感情をコントロール出来ないし、とことん敵とみなし追い詰める。かつて絶縁する前の母と同じだ。
「ここまでしてやったのに感謝が足りん」
「わざわざ遠方の仕事をするなら近くの仕事をして実家の家事をしとけばいいったい」
「借金をして頭を下げて実家に帰ってきたアンタに言う資格はない」(昨年母が亡くなり自律神経をやられた私は生活費と家賃を払えなくなり100万円を兄から借りた)(これは母の保険金の一部で私と姉は1円も貰っていない)
「この家から出て行け、その時は100万をウリでも何でもどっかから引っ張って来て出て行け!」言葉の程度も剣幕も異常だった。
「アンタがおったら旦那もここに遊びに来にくいけん、アンタどっかいって。今から皆で飲むけん上に行って。」
ようやくお役御免になり私は自室で考えたが、どうしてもこの家の考えについて行けない自分がいた。いつまでも借金の事を責められ続け自分の事を棚に上げた家族に感謝が足りないと一方的に色々な期待や価値観を押し付けられ要求をされる。
私の居場所と幸せはもう実家には無かった。
(何故納税も勤労義務も果たしていない人に自分の事は棚に上げて罵倒されなければいけないんだろう)
(何故不正受給かもしれないのに家族が触れてはならないんだ。おかしい。)
(奴隷や虫のように息を潜めて暮らすのはもう嫌だ。)
ちいさなリュックに必要なものだけを詰め、
済まないけど、もうここにはいれない。無理。とだけ言い残して、私は家を出た。
姉がまたアンタ逃げるとね!と玄関先まで詰め寄ってきたが、父に静止された。
私が41歳になったばかりの5月の事だった。
Twitterもやってます☆
イトウマナエ@140字小説
2001年 はなたん24歳
環境を選べず育った私は母に、子供は親を選べんとよ!と突っぱねた。蓄積した気持ちを衝動的に。母は私の目を見つめ何も言わなかった。のちに母は鬱を発症した。怒りでぶつけた一言があまりに重く母を傷付け私もまた新たな悲しみを何年も背負い込み後悔し続ける。母は既にこの世には居ない今朝もまた。
1980年 はなたん3歳
幼少期から頻繁に酒に酔った父は母を殴り誰のおかげで食って行きようとや!と罵った。家具に当たって凄まじい物音を聞くまいと子は息を潜めていた。存在を消す様じっと隅っこで。そっと息を潜めることで緊張した家族関係から、傷つけられることから自分を守っていた。残念ながら世界はここだけだった。
2017年 はなたん40歳
母が小さな箱に入り、物に変わった夏の日。父に尋ねた。「子供の頃から喧嘩ばかりで険悪な夫婦に映ってたけど実の所はどうやったと?」父は寂しく笑い「仲は良かったよ。お母さんがしっかりしとったけんね」とポツリ。50年決して父を見捨てなかった母から最期に芯を通す愛の重みや強さを私は学んだ。